■ 「え、分割プレイってそんなに珍しいの?」から始まった違和感
2025年8月、「Nintendo Switch 2」に関する情報がSNSを賑わせた。
話題の中心は、『カービィのエアライド』の復活、そしてそれが**“本体1台で4人まで画面分割プレイできる”**という仕様だ。
これに対してX(旧Twitter)では、以下のような反応が溢れた:
「昔からあったじゃん、64時代から…」
「いやいや、エアライド画面分割は神だろ」
「Switch2が画面分割対応!?信じられない…!」
──どこか矛盾した熱狂。
珍しくないことが、なぜバズったのか。
そして、「できること」よりも「“できる”と聞いて驚かれる」その状況こそが、この記事の核心となる。
■ 昔は当たり前だった“共有画面”の体験が、いつの間にか絶滅危惧種に
画面分割──それは、かつてのゲーム文化において当たり前の機能だった。
- マリオカート64
- ゴールデンアイ007
- 大乱闘スマッシュブラザーズDX
- モンスターハンター3(トライ) ローカル2画面
これらのゲームでは、1つの画面を2〜4人で分け合いながらプレイするのが普通だった。
時には相手の画面をチラ見して場所を探ったり、アイテムを先読みして笑い合ったり──。
だが時代は変わった。
- オンラインマルチの台頭
- 「一人一台」の前提設計
- コンパニオンアプリやボイスチャットによる“別空間での協力”
これらの進化によって、「同じ画面を見る」=“古くさい”ものという空気が形成された。
🌀つまり今、「画面分割」は**“失われたけど覚えている体験”**になっていたのだ。
■ 技術ではなく“設計思想の逆行”に人は惹かれる
ここで考えるべきは、「画面分割ができる」という事実よりも、
**「Switch2という“最新機”で、それをわざわざ実装してきた」**という意味合いだ。
ゲーム機の進化とは、基本的に「処理性能・表現力・通信性の向上」を目指してきた。
とくにSwitch1では、ローカル2人プレイこそあるものの、“4人分割”の本格採用は少数派だった。
→ だからこそ、プレイヤーの無意識にはこんな前提があったはず:
「Switch2は、さらに“1人1画面”を強化してくるだろう」
「ローカルよりも、クラウド・AI・拡張性だろう」
そうした予測に反して、
「Switch2は1台で4人分割できます」
という情報が飛び込んできた瞬間──
それは“逆張り”でも“回帰”でもない、選ばれた意志のように映った。
技術革新の中で、あえて残された“分かち合いの余白”。
それが一部のユーザーにとっては、今だからこそ価値ある設計に感じられたのだ。
■ 共有体験=アナログの逆襲?
ここで注目したいのは、「同じ画面を見ながら遊ぶ」という設計が、
今の社会状況ではむしろ**“贅沢で特別なもの”になっている**という点だ。
🔸コロナ禍以降のゲーム体験の変化
- 人と会わずに遊べる環境が正義に(=距離感の安全)
- オンライン前提のUIと快適な設計が浸透
- DiscordやZoomなどの通話とセットでの「非同空間プレイ」が一般化
そんな環境の中で、あえて「みんなで同じ画面をのぞきこむ」という状況が提示されると──
「この遊び方、今ではむしろレアじゃない?」
「“一緒に遊ぶ”って、こういうことだったかも」
と、感情と思考の両方で反応が生まれる。
■ 文脈ブーストという“見えない熱量”
今回のトレンド化には、純粋なゲーム機能の話題性だけでなく、
「エアライド」や「Switch2」自体が持っている文脈バフの存在が大きい。
🔸 カービィのエアライドの“カルト名作”ポジション
- 2003年のゲームキューブ作品
- シンプル操作+スピード感あるレースアクションで熱狂的な支持
- だが“続編が出ない名作”として、長年「復活希望」ランキング常連
つまり…
「ようやくあの“エアライド”が帰ってくる」
「しかも分割プレイできる!? ってことは“あの頃”がまたできるのか」
この記憶と期待のリンクが、トレンドを後押しした。
🌀これは「スペックの話」ではなく、「体験の再現」の話である。
■ 「語感 × 勘違い × 跳ね」=バズりやすい構造
もう一つ見逃せないのは、SNS上でのトレンド化には、偶然的な拡がり方のテンプレが存在する。
それは次のような流れだ:
- 印象的なワードが流れる
→「Switch2で画面分割対応!」(←一文で強い) - 誤認や期待が混ざって語られる
→「Switch2発売されたの?」「分割って何か特別な意味ある?」 - ツッコミや皮肉が拡散の加速剤になる
→「30年前の機能でバズるって何?」「分割できるだけで歓喜?」 - 真面目とネタが交差して“文化”っぽくなる
→「昔の体験が“再発見”される時代なのかもな」
🌀つまり、“トレンドワード”としての「画面分割」は、事実以上に語感と文脈で成立していた。
■ 再発見という名の“再構築”
ここで注目したいのは、「新機能」ではなく「再発見された設計」として語られたこと。
- 技術的には当たり前
- UI的には古めかしい
- プレイ感も“地味”なはず
…なのに、それが人を惹きつける魅力を持つとしたら、
そこには「失われていた意味を、再び“選び直した”という物語」が存在する。
■ これは「空間の再共有」への欲求なのかもしれない
社会的・身体的な距離が“意識的に保たれる”ようになった今、
誰かと同じ画面をのぞきこみ、同時に笑うという行為は──
“古くて新しい”、そして“面倒だけど温かい”ものになった。
そして、それを敢えて実装したSwitch2の姿勢に、ユーザーはどこかで感じ取ったのだ。
「これは便利の話じゃない」
「“みんなでやる”ってことを、ちゃんと選んだんだ」
■あなたの違和感は間違ってない
「画面分割が話題になるなんて変じゃない?」
「昔からできたことが、なぜ今さら評価されるの?」
──その感覚は正しい。でも、だからこそ面白い。
- 失われたものが“再び見える”瞬間
- 当たり前が“意図的に選ばれる”場面
- 便利より“不器用な楽しさ”が愛される兆し
そうしたズレの中に、トレンドの種は眠っている。
