◆ SNSに突如現れた「トランプ死亡説」
2025年9月初旬、アメリカのSNS上で突如「#TrumpIsDead(トランプは死んだ)」というハッシュタグが急浮上しました。週末の間、X(旧Twitter)やTikTokでは「トランプが姿を見せていない」「副大統領のJD・ヴァンスが不穏な発言をしている」「手や顔のむくみが異常だ」といった投稿が広がり、瞬く間に“死亡説”として拡散されていったのです。
きっかけは小さな違和感でした。
— トランプがここ数日、公の場に出ていない
— 最近の写真で手が赤く腫れているように見える
— 医療報告で「慢性静脈不全」という言葉が出てきた
これに加え、副大統領であるJD・ヴァンスが「大統領に万が一のことがあった場合、備えておかなければならない」と述べたことが、文脈を無視して“遺言”のように誤解されました。まるで伏線のように見えるこれらの断片が、ネットのなかで「噂」から「確信」に変わっていったのです。
◆ 本人が否定「I’m still here.」
騒ぎがピークに達した9月2日、ついに本人が登場します。ホワイトハウスでの記者会見でトランプは「週末に自分が死んだと知らされた」と記者から尋ねられ、「そんな話は知らなかった」と笑顔で一蹴。そして、技術業界の関係者を集めた晩餐会では、冒頭で「I’m still here(私はまだここにいる)」とユーモアを交えて語り、会場の笑いを誘いました。
彼の言葉は一見ジョークに聞こえますが、これは間違いなく「自分が生きている証明」の場だったと言えます。SNS上の空気を敏感に察知した彼は、いつものように“敵”であるメディアへの攻撃にも利用しました。記者に向かって「あなたたちこそフェイクニュースだ」と非難し、陰謀論を否定すると同時に“被害者”としての立場もアピールしたのです。
◆ 医療情報の「空白」が生む想像と疑念
専門家たちの見解では、「トランプ死亡説」は完全なデマです。ただし、その広がり方にはいくつかの構造的な問題が絡んでいます。
まず注目されたのが、手の腫れや顔色の変化。ホワイトハウス医師団はこれについて「慢性静脈不全」や「アスピリンによる内出血の可能性」と説明しました。年齢相応の症状であり、深刻ではないという見解です。
しかし、ネットでは「これは脳卒中や心臓病のサインでは?」「握手中に痛めたにしては不自然」という医療関係者らの投稿が相次ぎました。とくにTikTokに登場した自称物理療法士の投稿では、画像分析から「トランプ氏は過去に脳卒中を起こしていた可能性がある」とまで言及され、300万回以上視聴されるなど、強い影響力を持ちました。
さらに、情報の出し方にも問題がありました。ホワイトハウスは、週末の間公式声明を出さず、記者会見も開かなかったのです。空白は常に想像を生み、SNSでは“隠されている真実”を探そうとする動きが加速します。この構図こそが、後述する「デマの再生産構造」に繋がっていきます。
◆ なぜ「死亡説」は何度でも拡散されるのか?
Vanity Fairは、こうした陰謀論が何度もネットに再浮上する背景について、非常に示唆的な分析を行っています。
曰く、それは「ユーモアと不信のハイブリッド構造」だと。
死亡説の多くは、投稿者自身も“本気”ではないが“ありえるかも”という空気を帯びています。そして、過去の出来事(2019年のウォルター・リード病院への急搬送、2020年のコロナ入院など)を知っている人ほど、「今回もまた何かを隠しているのでは」と連想を膨らませてしまう。
また、年齢や健康状態といった“可視的な弱点”が、ネット上での「ネタ消費」に利用されやすい点も挙げられます。実際、「老い」を笑いの対象とした投稿がバズる一方で、それが本物の不安や疑念を引き起こす温床にもなっているのです。
この構造を支えているのが「情報の空白」です。透明性が欠如した状態では、人々は隙間を「物語」で埋めようとします。それが事実でなくても、構造が“語り”を後押しする。こうして噂は消えるどころか、時をおいて再燃していくのです。
◆ 専門家の声 vs. SNSのインフルエンサー
今回の一連の騒動では、医療専門家の見解と個人発信者の言説がぶつかり合う場面も目立ちました。
Foxニュースの医療アナリストであるマーク・シーゲル医師は「トランプは健康だ」と明言し、「年齢で騒ぐのはageism(年齢差別)だ」と批判しました。一方で、TikTokやXでは「これは心臓の兆候では?」「呼吸器に問題があるのでは?」といった“見た目診断”が次々と出回り、それに飛びついたユーザーも多数いました。
また、NYタイムズの記者マギー・ハバーマン氏は「本人は知らなかったと言っているが、明らかにSNSの空気を気にしていた」とコメント。実際に彼は、自身の写真が拡散されていることについて遠回しに言及しており、“死んだことになってるらしい”という状況を逆手に取ってメディア批判を強める姿勢も見せていました。
専門的知見と感情的な推測が交錯するこの構図は、SNS時代ならではの情報の混沌を象徴しているとも言えるでしょう。
◆ 私たちにとっての教訓とは?
今回の騒動を振り返ると、「なぜトランプ本人が最初から詳細を説明しなかったのか?」と疑問に思った人も多いはずです。しかしその背後には、単なる性格や傲慢さでは語れない、公人としての戦略的事情が潜んでいます。
イギリス紙『The Guardian』は、科学と政治の違いに言及しつつ、次のように指摘しています。
「科学では“疑い”が前進の鍵になるが、政治では“疑い”は致命傷になりかねない」
つまり、科学者は「今は不確か」と言っても評価されますが、政治家が「わからない」「体調が万全ではない」と言えば、それだけで「失格」の烙印を押されてしまう構造があるのです。
ミシガン大学の研究では、政治家が率直に過去の誤りを認めたとしても、それが誠実さではなく“弱さ”や“矛盾”として捉えられるケースが多いとされています。
たとえば「実は持病がある」と伝えることが、本人の信頼感を高めるどころか、対立勢力にとっては格好の攻撃材料になってしまうわけです。
こうした構造の中で、公人が「黙る」「強く振る舞う」選択をするのは、ある意味で制度がそれを強いているとも言えるでしょう。
◆ 「弱さを見せられる社会」に向けて
私たちは日々、多くの情報にさらされながら、リーダーの“振る舞い”を通じて彼らの「本質」を見ようとしています。しかし今回のように、空白や説明不足が生んだ想像が、SNSで巨大な“死の噂”にまで膨れ上がった背景には、弱さを語ることの難しさがあると理解することが必要です。
政治家だけでなく、企業のトップ、教育者、インフルエンサーなど、公の立場にある人たちは、多かれ少なかれ同じジレンマを抱えています。
— 率直に話せば「信頼」を得られるかもしれない
— けれど、それによって「攻撃対象」になってしまうかもしれない
こうした心理的な壁がある以上、私たちの側にも「弱さを攻撃しない空気」や「事情があるかもしれないという想像力」が必要です。
そして逆に、自分自身が“見られる側”になったときも、「強さ」と「正しさ」を常に求められる構造に、自覚的であることが大切になります。
📝 まとめ
- トランプ死亡説は完全なデマだったが、沈黙と情報の空白が疑念を拡大させた
- 公人は弱さや未確定情報を語ることで“信頼”を失うリスクを背負っている
- 専門家も指摘するように、政治の世界では「疑い」はリスク、率直さは攻撃対象になる
- 私たちが受け手として必要なのは、「弱さを語れる環境」と、それを許容する想像力
- 情報がないからといって騒がず、“語らないことにも理由がある”と一度立ち止まる習慣が、より冷静な社会をつくる一歩になる
🔗 出典
- Trump Confirms He’s Not Dead (The Daily Beast)
- Why Donald Trump Death Rumors Keep Going Viral (Vanity Fair)
- Stephen Miller Rages Over Trump Health Rumors (The Daily Beast)
- Why Doubt is Essential in Science But Not in Politics (The Guardian)
- Can Public Officials Be Too Honest? (University of Michigan Journal)
