■ 牛乳パックに載った一言が波紋を呼ぶ
島根県の木次乳業が販売する牛乳。そのパッケージには、こんな言葉が印字されています。
「お母さんがたへ、赤ちゃんにはなるべくあなたの母乳を差し上げて下さい」
この一文は、同社が50年以上にわたって掲げてきた理念を表すメッセージ。自然の恵みを大切にし、人の体にとって最も適した栄養とは何かを問いかける姿勢の一環でした。
ところが2025年、SNSでこの表現が再び注目され、議論の火種に。
「母乳が出ない母にとっては傷つく言葉」「授乳ハラスメントでは?」といった声が相次いだのです。
■ いったい何が問題視されているのか?
この文言が炎上のきっかけになった背景には、以下のような社会的・心理的な構造があります。
◆ 1. 「母乳育児=正解」という圧力
- 母乳には確かに免疫成分や栄養が豊富に含まれており、多くの医療機関やガイドラインも「可能な限り母乳で育てることが望ましい」と述べています。
- しかし実際には、母乳が思うように出ない、乳首の痛みや精神的ストレスが強い、職場復帰との両立が難しいなど、母乳育児が困難な人も少なくありません。
◆ 2. 無自覚な“べき論”がプレッシャーになる
- 「赤ちゃんには母乳が一番」という表現が、無意識のうちに「母乳じゃないと愛情が足りない」「ミルクは劣った選択」といった誤解を生みやすいことが指摘されています。
- これは「授乳ハラスメント」と呼ばれることもあり、母親が自己否定や罪悪感を抱く原因にもなります。
■ 専門家からの意見
● 学術研究の知見(濱田真由美氏)
- 日本看護研究学会誌の論文では、母乳育児についての医療者の言説に「規範的な圧力」が存在することが明らかにされています。
- 「母乳は良い」という情報が、母親への期待や責任感を強化しすぎてしまう側面があることも指摘されています。
● 厚生労働省の支援ガイド
- 母乳を推奨しつつも、混合栄養や人工乳にも十分な配慮がされており、「母親の選択を尊重する支援」が基本姿勢です。
- 専門家の間でも、「柔軟な対応」「本人の思いに寄り添うこと」が強調されています。
■ 体験談から見えてくる“言葉の重さ”
● ケース1:「授乳が苦痛だった私にとって、あの一文はしんどかった」
- 授乳に強い痛みを感じていたという30代女性は、母乳育児が“幸せな時間”とされることにずっと違和感を覚えていたといいます。
- 牛乳パックの文言を目にしたとき、「やっぱり自分はダメな母親なのかも」と無力感に襲われたと回想しています。
● ケース2:「粉ミルクを使ったら親に責められた。あの表現は追い打ちだった」
- ある母親は、授乳に失敗した直後に家族から「頑張れば出るはず」と責められた経験があり、「母乳を」と書かれた商品を見るたびにその時のことを思い出してしまうと語っています。
■ それでも企業理念として続けてきた背景
木次乳業の佐藤社長は、報道陣の取材に対し次のように語っています。
「自然の恵みこそが体に最も良い、という企業理念の象徴として母乳を例に挙げた」
「ただ、不快に思う方がいることは認識しており、表現の見直しを検討している」
創業以来「自然」「無添加」「安全性」を重視してきた同社にとって、母乳という言葉は“象徴的な存在”であり、単なる栄養推奨の文言ではなかったのです。
■ 「母乳推奨」は誰のためのものか?
母乳を推すことが、赤ちゃんや母体にとって良い――。それは事実として受け入れられてきました。しかし問題は、「良いこと」がいつの間にか「すべきこと」になってしまったことにあります。
誰のための“推奨”なのか。
それは母子の健康のためであって、決して“評価”や“比較”のためではなかったはずです。
■ 「善意のアドバイス」が生む孤独
木次乳業のように長年理念を貫いてきた企業が、今その表現に揺れているのは、「善意の言葉が誰かを苦しめる時代になった」という現実を、私たちが直視せざるを得なくなったからです。
たとえばSNSでは、次のような声がありました。
「“なるべく母乳を”って書いてあるだけで、なんでこんなに責められている気になるんだろう」
「母乳をやめるって決めた日に牛乳パックでこの文字を見た。泣いた」
「あれはただの栄養の話じゃない。“ちゃんとできてる?”って問われてる感じがする」
言葉は善意から生まれても、受け手の心には「評価」や「呪い」のように響くことがある。それは育児のような繊細で不安定な場面ではなおさらです。
■ 「アップデートする言葉」のあり方
いま求められているのは、「変える」か「変えない」かという二項対立ではなく、「どう伝えたらより多くの人に届くか」という柔らかい視点です。
たとえば、こんな言葉ならどうでしょうか。
「赤ちゃんの健やかな成長を願って、あなたらしい授乳の形を応援します」
「母乳もミルクも、どちらも愛情です」
企業メッセージとしての芯を残しながらも、誰かを否定しない。
育児において「正解」は1つではなく、状況に応じた無数の選択肢があることを、伝える言葉もまた体現していく必要があります。
■ キャスターたちの冷静な視点
TBSの報道では、キャスター2人が印象的なコメントを残しています。
- 井上貴博キャスター:「ミルクでも母乳でも、選択が尊重される空気が大切」
- 出水麻衣キャスター:「創業の理念は理解できるが、今の時代に合うかどうかは冷静に考え直す必要がある」
これは、対立ではなく共存を目指す姿勢の表れです。
■ 結論:誰かの“当たり前”は、誰かの“痛み”かもしれない
「赤ちゃんに母乳を」。
この一言が、誰かにとっては愛に満ちた助言であり、誰かにとっては忘れたくても忘れられない苦い記憶になります。
時代や価値観が変わっていく中で、私たちがすべきなのは、「その一言がどう響くか」を想像することです。
✔ まとめ:この記事で伝えたかったこと
- 母乳育児を推奨する表現には、長年の理念と善意が込められている。
- しかし受け手の状況によっては「プレッシャー」や「自己否定」につながる場合がある。
- 専門家や育児支援の現場では「母親の選択を尊重する姿勢」が重要視されている。
- 言葉は変えられる。より多くの人が救われる表現へとアップデートすることは、企業・社会の責任でもある。
あなたがもし、あの一文に傷ついたとしても、それは「弱さ」ではなく、「感じ取る力」なのだと思います。
そして、そう感じる人の存在があるからこそ、社会は少しずつ優しくなれるのかもしれません。
