■ 一部には“無敵の人”の仮面をかぶった「印象稼ぎ型炎上者」も存在するが、それは氷山の一角である
SNSで過激な言動や騒動を巻き起こす投稿者に対し、「あれは“無敵の人”なんじゃないか?」という視線が向けられることがある。
「失うものがない」「共感を求めていない」「誰にも気を使わない」──まさに“無敵の構え”を取っているように見える投稿群だ。
だが、それは本当に“何も失うものがない人”によるものなのか?
それとも、「無敵のふり」をして注目を集めようとしているだけなのか?
本記事では、実際の事件・専門家の分析・SNSでの実例をもとに、
「SNSで騒ぐ“無敵の人”」が何者なのか、そしてなぜそれが“炎上”と“承認”の間を揺れ動くのかを探っていく。
■ 無敵の人とは? SNSに現れるその姿
「無敵の人」とは、もともとは2ちゃんねる創設者・ひろゆき氏が2008年に発言した言葉から広まったとされる。
「生活保護もらってて、仕事も家族も友達もいない人。刑務所に入っても生活レベル変わらない人。
そういう“失うものがない人”は無敵。だから怖い」
(要旨)
この言葉は、その後「社会的に孤立し、法やモラルを破ることに躊躇がない人」というイメージとともに、
様々な事件の加害者にラベルとして貼られていった。たとえば:
- 2016年:相模原障害者施設殺傷事件
- 2022年:安倍元首相銃撃事件
こうした事件の報道において、犯人が“無敵の人”であったと語られることが増え、
「無敵の人=犯罪に躊躇しない孤独な存在」という構図が強く社会に刻まれていった。
だがSNS上では、より軽い意味合いでこの言葉が使われ始めている。
「どうせクビになるならぶちまけたろ」
「もう全部言う。嫌われてもいい」
「バズって消されても痛くない」
──こうした発言をするアカウントに対し、
ユーザーたちは半ば冗談めかして「無敵の人っぽいな」「言動が怖い」と反応する。
■ “無敵の人”がSNSで現れる典型パターン
1. 過激な暴露・内部告発風投稿
- 例:「○○社でパワハラ受けてた。証拠出す」
- 多くの場合、匿名アカウント or 捨て垢で投稿される
- 本人は「失うものはない」と言い切るが、アカウント削除後も再浮上することも多い
2. 一方的な攻撃・晒し行為
- 例:「この人マジでやばいから晒します」「DMの中身全部出す」
- 道徳や法律ギリギリのラインで発言
- 炎上狙いというより“鬱憤の吐き出し”にも見える
3. 被害者+挑発者の二重構造
- 例:「昔こういう扱いを受けた。私が悪いの?」「言ってくれたら殴り返すだけです」
- 被害性と攻撃性が混在しており、反応次第でどちらにも転ぶ
- 見方によっては“共感狙い”、別の見方では“自爆営業”
■ 本当に“無敵”なのか? SNS投稿者のリアルな心理
ここで注目したいのは、精神科医や心理職たちが口を揃えて言っていること:
「本当に何も失うものがない人は、そもそも発信すらしない」
「“私は無敵の人”と名乗っている時点で、まだどこかに承認欲求や期待が残っている」
◆ 解説:心理臨床家・山崎孝明氏(心の専門家)の視点
“無敵の人”という言葉には、「社会の中に自分の居場所がない」と感じている人の悲しみや孤立感が詰まっている。
それを冗談で使うことが、さらに周縁化・疎外を助長する危険性がある。
つまり、「騒いでいる=無敵」という直結は、やや短絡的だ。
むしろ、騒ぐことで“無敵じゃない”自分を必死に支えている人もいるかもしれない。
■ インプレッション稼ぎという側面:バズ=存在の証明?
それでもなお、「あえて過激に言う」「あえて孤独アピールする」ことで
SNS上でインプレッション(閲覧数)を稼ぐ人は実在する。
◾ 例:炎上系YouTuber・捨て垢投稿・自己炎上
- “どうせ嫌われてるし”という前提で強気に出る
- “無敵モード”を自称することで、自分の振る舞いを正当化する
- 「注目される=自分が存在している証」になる
これは、「無敵の人」というレッテルを**“社会的な自己ブランディング”に転用するケース**とも言える。
■ なぜ“無敵の人”はラベル化されやすいのか?
そもそも「無敵の人」という言葉は、
当初は“社会的に孤立した末に危険な行動を取る人”という文脈で使われていた。
しかし最近では、
- 発言が攻撃的
- 極端な自己開示
- 誰にも共感を求めない態度
──などを見た瞬間に、即座に「無敵の人だな」とレッテルが貼られてしまう傾向が強まっている。
これは、人の背景や内面に目を向けるよりも、言動そのものの強度で“分類”してしまうSNSのスピード感とも関係がある。
💬 例:「こういう人がいるから世の中が悪くなる」
→ ラベルを貼ることで、自分の正当性を確保
→ 本人が“演技”で無敵を装っていたとしても、それはもう通じない
■ 「演じる無敵」と「本物の無敵」の境界線
精神科医・心理士・社会学者たちが指摘するように、
「無敵の人」に“見える”ことと、“本当に無敵”であることは全く別物である。
| 区分 | 特徴 |
|---|---|
| 🧥 “演じる無敵” | 過激な発言で注目を集めたい/話題に乗りたい/共感か炎上どちらかを引き寄せたい |
| 🧨 “本当の無敵” | 経済的・社会的・人間関係的に孤立し、反応や評価すら求めていない/すでに信頼の回復を諦めている |
“演じる側”が過激な言動を繰り返して炎上を起こすと、
**“本当に追い詰められている人たちの存在が見えにくくなる”**という副作用が生じる。
これは、「無敵の人」という言葉が**“キャラ化・ネタ化”されることで本来の深刻さが軽んじられる**という社会的な問題でもある。
■ それでも「騒ぐ」理由とは?
──インプレッションという“疑似的な承認”
SNSは、リアルで承認されにくい人でも、「見られる」ことで“承認されている気分”になれる場だ。
- 炎上しても数字が伸びる → 「存在が証明された」感覚
- ブロックや通報されても、言いたいことは届いた → 「本音をぶちまけた」快感
- 「わかるよ」「同じ気持ち」などの反応が1件でもあれば、“完全な孤独”ではない気がする
これはある意味で、“デジタルな命綱”である。
例:「バズったらアカ消す」「どうせ消される前提で書く」
→ 一見投げやりに見えるが、それでも**“届く瞬間”を求めている**
■ 無敵の人を消費しているのは誰か?
もうひとつ忘れてはならない視点がある。
それは、“無敵の人”という存在を、SNSユーザー側がラベル化・コンテンツ化して消費してしまっているという現実。
| パターン | ユーザーの反応例 |
|---|---|
| 炎上した人 | 「はい出た、無敵の人」「またこの手のアカかよ」 |
| 無敵的な発言 | 「これは晒すべき」「放置するとヤバいやつ」 |
| 自爆型暴露 | 「これが無敵の末路」「病みアカ劇場」 |
→ 本人が苦しんでいようが、演技していようが、**周囲は“ネタとして面白がってしまう構造”**がある。
これは「心の叫び」が、「ウケ狙いのエンタメ」にすり替えられてしまう恐ろしさでもある。
■ SNS時代の“無敵っぽい人”との向き合い方
では、今後私たちは「無敵の人っぽい振る舞い」をSNSで見たとき、どう対応すべきなのだろうか。
✔ すぐに“ネタ化”しない
→ 過激な発言を見ても、**「何を失った人か」ではなく「何を抱えている人か」**という視点を持つ
✔ 承認狙いの“演技”であっても、否定しない
→ 「印象稼ぎかよ」と一蹴するのではなく、「それでも発信しないよりはいいのかも」と考える余地を持つ
✔ レッテルを貼らず、文脈を見る
→ その人の他の投稿や背景、リプライ欄のやりとりを読むことで、言葉の裏にある“揺れ”や“迷い”が見えてくることもある
■ まとめ:無敵の人は、意図的に無敵を演じているとは限らない
- 本当の無敵は、声すら発しない
- 無敵に“見える人”も、どこかで誰かに届いてほしいと思っている
- SNS上での過激な発信は、時に最後の手紙かもしれない
- その叫びを“インプレ稼ぎ”と一言で片づけてしまうことが、さらに孤立を深める引き金になることもある
🔗 参考・出典:
