「BL無罪」はなぜ議論を呼ぶのか? 表現の自由と社会の線引きを考える

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▶この記事の目的

  • BL無罪とは何を指すのか?
  • どうしてこの言葉が生まれたのか?
  • 専門家はどう捉えているのか?
  • 他分野にも共通する“許容と規制”のジレンマとは?
  • そして私たちは何に違和感を覚えているのか?

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【1】「BL無罪」とは何か?どこから来たのか?

「BL(ボーイズラブ)無罪」という表現は、主にSNSやフェミニズム界隈・表現規制議論の中で登場した造語です。
意味するのは、「BL(特に女性向け性描写コンテンツ)は、他の性表現に比べて社会から寛容に見られている(=無罪とされている)」という指摘です。

✅ 主に指摘される矛盾の例

  • 男性向けエロマンガは「ゾーニングしろ!」と言われるが、BL本は平積み
  • 少年を対象にした性的描写に対して、BL作品ではあまり問題視されない
  • 書店や図書館における扱いが「BLだけ緩いのでは」という声

こうした現象に「無罪」という言葉を皮肉的に当てはめたのがBL無罪論の原点です。


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【2】表現規制の専門家はどう語っているのか?

◉ 堀あきこ氏(ライター・表現規制研究)

  • 自身は「BL無罪なんて言ったことない」と明言
  • むしろ表現物すべてに一貫したゾーニングが必要と考える立場
  • 「性描写の質よりも、“誰がどんな視点で消費するのか”が問われる社会の構造こそが問題」と指摘

→ 特定ジャンルの優遇ではなく、表現全体の取り扱いルールを整備すべきという視座


◉ note記事「BL無罪と表現の自由のあいだ」(kous37氏)

  • BL作品が“表現の自由”という名のもとに批判を免れやすい点に疑問
  • 一方で、男性向け作品には厳しい視線が向く「文化的二重構造」を指摘
  • 「フェミニズムの側も自己検証が必要ではないか?」と問題提起

→ 「表現の自由」を守るなら、どのジャンルにも同じ基準が適用されるべきという論理


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【3】実態調査:「BL無罪」は本当に存在するのか?

◉ 鏑木和奏氏の福岡書店レポート(note)

  • 福岡の約60店を調査し、BL作品が子ども向け書籍と隣接する形で陳列されている現実を記録
  • 他ジャンルでは見られないほどゾーニングが甘く、「BLだけがなぜ?」という問いを突きつける
  • 書店員へのヒアリングでは「売れるから仕方がない」「クレームが少ない」という曖昧な運営理由が多く見られた

→ 実態として“BLだけ緩い”状況が存在する可能性を示す報告


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【4】“楽しむ側”の葛藤──個人の声に見る「消費と責任」

◉ note投稿「BLが好き。でも申し訳なさを感じてしまう理由」

  • BL作品を楽しみながらも、「これは誰かを傷つけていないか?」という自責的感情に悩む筆者の心情を記録
  • 「フィクションだから問題ない」と割り切る自分と、「倫理的に配慮すべき」という自分の分裂
  • 結論は「何を見てもいい。ただし、どう消化し、何を考えるかは自分に返ってくる」との内省

→ 受け手側のリテラシーと倫理観が問われる時代になっていることを象徴する視点


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🧠“BL無罪”とは、ジャンルの問題ではなく「社会の構造」への疑問符

この言葉が出てくる背景には、単なる表現の好き嫌いではなく、次のような社会的構造への違和感が見えます。

  1. 「誰が」「何を」「どう消費するか」で評価が変わる文化的二重基準
     → 同じ内容でも、男性が見れば叩かれ、女性が見れば許される?
  2. 人気や消費量が“正当化の盾”になってしまう社会構造
     → 売れるから無罪、批判されないからセーフという感覚が、ジャンル全体に影響
  3. 「ゾーニング」のあいまいさと、現場(書店・図書館)の曖昧な運用

このような状況を、「BLというジャンルが悪い」と短絡的に捉えるのではなく、
社会全体の“表現との距離感”が問われているのです。

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【5】「BL無罪」と似た構造は、世界にもある

BLというフィクションジャンルに対する甘さ(と見なされる状況)は、実は他の社会的テーマでも見られる構造的ジレンマに通じます。


◉ 事例1:トランスジェンダー権利と「体の自由」

国際人権NGO・Human Rights Watchは、2023年、日本の性同一性障害者特例法における「性別変更のための強制手術」を違憲とする判決を歓迎。

  • 個人の身体と性の自己決定権に対する国家制度の介入はどこまで正当か
  • 「多様性を受け入れる社会」と「身体規制の法制度」は両立するか

→ これは、BL無罪論で問われる「表現の自由と社会的責任の線引き」と非常に似た構図です。
(参照:Human Rights Watch 2025年7月レポート)


◉ 事例2:表現の自由と報道の規範

国連特別報告者のDavid Kaye教授は、日本の放送制度やメディアの自主規制体質について「事実上の言論統制」と批判。

  • 放送法や政治的圧力によってジャーナリズムの多様性が奪われている
  • 「自主規制」は果たして自由を守るものか、潰すものか?

→ これも、「BLは自主規制が甘いから許されているのでは」という懸念とパラレルな問題設定です。


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【6】なぜ“無罪”は問題なのか?

「BL無罪」という表現は、一見すると軽い揶揄のようにも見えます。
しかし、その背後には次のような複雑な社会問題が絡んでいます:

項目問題点
倫理の基準が曖昧どこまでが許容される“フィクション”なのか
ダブルスタンダード男女・嗜好ジャンル間で「同じ表現」が異なる扱いを受ける
ゾーニングの機能不全コンテンツの配置・年齢制限が現場任せになっている
自己責任論のすり替え規制されないこと=受け手がすべて責任を持つべき、という論理の危うさ

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🧠「何を許し、何を問うか」は、私たち自身の問題

この議論の本質は、BLだけでも、性的表現だけでもありません。

それはむしろ、次のような“社会の姿勢”を問うものです。

✅「批判できる空気」があるか?

  • 表現を楽しむ自由と、批判や検証を許容する土壌は両立しなければならない
  • 「攻撃された」と過剰反応することは、自由な議論を萎縮させる

✅「ゾーニングや年齢制限」の再設計が必要

  • 表現の内容ではなく「提供の仕方」が社会的ルールになるべき
  • 書店や図書館の運用には、現場の裁量を超えた制度整備が必要

✅「自由な表現」は、常に誰かの不快と隣り合わせ

  • 全ての表現には“誰かを傷つけるリスク”がある
  • そのリスクを排除するのではなく、「どう受け止め、考えるか」の訓練が必要

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✅まとめ:「無罪」は“許されている”のではなく、“問われていない”だけかもしれない

「BL無罪」という言葉が意味するのは、
実は「ジャンルが許されている」というよりも、
「議論されることから逃れてきた領域」だったのかもしれません。

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🧩結論としての提案

視点考えるべきこと
表現者“何を描くか”より“どんな環境に置くか”を意識する
読者・消費者「なぜ惹かれるのか」「なぜ違和感があるのか」を言葉にする
社会・制度ゾーニング、年齢制限、批評文化を社会的合意として整える
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🔗 出典リンクまとめ

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