◆ セクシーとは「言葉」より「関係性」の問題だった
2019年、当時の環境大臣だった小泉進次郎氏が国連の会見で語った「セクシーに」という一言は、瞬く間にメディアやSNSの話題となった。
賛否の渦の中で人々が問うたのは、彼の政策ではなく、彼という人物が「セクシー(魅力的)」かどうかという問いそのものだった。
本記事では、小泉氏の発言の背景、実際の反応、そして「セクシー」の多義性がどのように誤解や期待を生んだのかを丁寧にたどりながら、
最後に改めて、「私たちが政治家に求めている魅力とは何か」を考える。
◆ 背景:「セクシー」発言が起きた国際会見と、その誤解
2019年9月、ニューヨークで開かれた国連気候行動サミットにて、小泉進次郎環境相(当時)は以下のように語った。
“When you’re asking for ideas to tackle climate change, we need to be fun, we need to be cool, we need to be sexy.”
この発言は、日本語報道で即座に《セクシーに気候変動に取り組む》というタイトルとなり、「意味がわからない」「中身がない」と批判が集中した。
しかし、実際にはこの表現は同席していたクリスティアナ・フィゲレス(元国連気候変動枠組条約事務局長)の発言に呼応したものであり、国際会議での対話文脈の中では一定の共通感覚として成立していた。
◆ どうして「セクシー」だけが一人歩きしたのか?
🔹 ① 英語文化と日本語文化の違い
英語での “sexy” は、「魅力的な」「注目を集める」「面白い」というニュアンスを含む口語表現であり、決して性的意味だけではない。
通訳・英語講師の山下えりか氏は自身のブログでこう述べている。
「英語で“sexy idea”というのはよくある表現。“good idea”を強調する言い換えにすぎません。」
しかし日本語における「セクシー」は、性や肉体に直結するイメージが強いため、翻訳時の文脈スイッチが追いつかず、違和感や誤読が拡大した。
🔹 ② 政治家の言葉としての“軽さ”への批判
言語文化の違い以上に、多くの批判が集中したのは「政策の具体性が乏しいのにキャッチーな言葉だけが先行した」という印象である。
実際、国会では立憲民主党の熊谷裕人議員が「発言の意図」を政府に問う質問主意書を提出。
そこでは、「セクシーの意味を政府としてどう説明するのか」という政治的責任までが問われた。
つまり、「セクシー」は単なる言葉以上に、“責任のある言語”かどうかが問われた瞬間でもあった。
🔹 ③ パフォーマンスとしての意図と、その難しさ
一方で、ブランディング戦略家や文化評論家の中には、この発言を「戦略的」かつ「時代的」と評価する声もある。
朝日新聞の文化欄では、ファッション研究者・上間常正氏が以下のように語っている。
「政策がどれほど論理的でも、それを伝える言葉に“魅力”がなければ始まらない。“セクシー”とは、その魅せ方の演出だった。」
つまり、小泉氏は政治家として「記号性」や「印象戦略」を意識しており、その中で“伝わりやすい”単語としてセクシーを用いたとも言える。
◆ 「言葉」ではなく「関係性」で評価するという視点
一連の議論を通じて見えてくるのは、政治家の発言が評価されるとき、言葉の正確さや中身以上に、「その人がその言葉を使ったときにどう響くか」が問われているということだ。
以下、印象的だった体験談を紹介したい。
- noteで発信したNY在住の戦略家は、「彼が誰に向けて発言したか」を問うべきだと書いた。
→ 同席者との共鳴を重視した点を評価。 - 国会での質疑では、「軽率」という批判があった一方、「自分の言葉で語ろうとした姿勢を評価する」という意見もあった。
→ 若手政治家の“危うさ”と“新しさ”が同居していた。
こうした反応は、政策以上に**「この人の話を聞いてみよう」と思わせるかどうか**が、政治家としての評価を左右しているという実感でもある。
◆ 「セクシー」は信頼できるのか?——再評価の入り口
振り返ってみれば、小泉氏の「セクシー」発言は、政治の世界においても「魅力」や「感性」が大切だというメッセージでもあった。
たとえば、ビジネス界では「セクシーなUI(ユーザーインターフェース)」という言葉が使われるように、直感的に人を惹きつけるものが、意思決定や共感の入り口になることも多い。
政策や数字だけでは動かない社会感情の中で、小泉氏が“あえて”軽やかな言葉を使ったのだとしたら、
それは「理屈で納得させる政治」ではなく「まず共感させる政治」への挑戦だったのかもしれない。
◆ 考察:「小泉進次郎はセクシーか?」という問いの再構成
では、あらためて——
小泉進次郎はセクシーなのか?
この問いは、おそらく「見た目」や「話し方」ではなく、**「政治家として人を惹きつける力があるかどうか」**を問う隠喩なのだろう。
その意味で言えば、彼は間違いなく「セクシー」だった。
ただしそれは、政策の完成度や論理性というより、「話してみたくなる存在感」や「場の空気を変える言葉の跳ね方」によってだ。
一方で、その“跳ね”が強すぎれば、言葉は誤解され、叩かれ、消費されてしまう。
まさに今回の「セクシー」発言がそうだったように。
🌀 言葉の“軽さ”と“誠実さ”のあいだで
言葉が軽く見えるとき、それは裏にある「誠実さ」まで軽視されやすい。
しかし、伝える手段として“軽やかであること”と、“中身がないこと”は、まったく別物だ。
今回のケースは、そのあいまいな境界線を歩こうとした結果、評価が真っ二つに分かれた。
それでも、自分の言葉で、自分の表現で語ろうとする姿勢には、
未熟さと同時に、新しい時代の政治言語への模索も感じられる。
◆ まとめ:私たちが「セクシーな政治家」に本当に求めているもの
「セクシーな政治家」というと、何かふわっとした響きがある。
だがその実体は、おそらくこういうことだ。
- 発言に説得力があり
- 空気を変える力があり
- けれど押しつけがましくなく
- 遠すぎず、でも媚びすぎない
そうした曖昧で感覚的な魅力を、人は時に「セクシー」と呼ぶ。
小泉進次郎の「セクシー」発言は、言葉の正しさよりも、どんな距離感で人と関われるかを試された瞬間だったのかもしれない。
そしてこの問いは、これからの政治に対しても、私たち自身に対しても、静かに残っている。
「あなたにとって“セクシーな政治”とは、何ですか?」
